■ご挨拶 ~共なる世界・比べる必要のない世界~

能量寺を代表しまして、一言ごあいさつ申し上げます。


能量寺は従来のお寺の活動である礼拝や法要などの仏事とともに、青年会、子供スクール、ハワイとの交流、子供劇団、農園、ライダーハウスという様々な活動に力を入れております。
仏教本来の教えとは何か、お寺の在り方とは何か、門信徒はもとより若者達とともに悩みながら迷いながらも休むことなく活動してまいりました。いま約30年という時間が経ち、その形が見えてきたような気がいたします。


『出遇い・発見・感動』私たちが様々な教化活動のテーマとしてきた大切な言葉です。


この言葉はいつも差別や争いの心が起こる私たちに対して“共なる世界”“比べる必要のない世界”を見つけて欲しいという、仏さまの願いであります。その仏さまの願いとの「出遇い」は、私たちが思い描く平等や思い通りの自由ではないという「発見」であります。つまり、自分以外の存在がそこに見えたということです。そのことを感じたとき人は、本当に動かされてゆくのだとと思います。

これまで能量寺に関わってきた多く人との『出遇い』を胸に抱きながら、そして、これから関わりあう人たちや物事、そのすべてが大切な『出遇い』になるように願ってやみません。


このたびホームページという形で、さらに能量寺を皆さんに知って頂き、興味を持っていただければ何よりです。皆様方がこの石狩のお寺、能量寺に遊び来てくれることを心より念じまして、ご挨拶とさせて頂きます。


合掌  

真宗大谷派 常行山 能量寺

住職 飯尾亜紀仁

■真宗の教え

●宗旨について


本尊 阿弥陀如来
正依の経典 仏説無量寿経(大経)、仏説観無量寿経(観経)、仏説阿弥陀経(小経)
宗祖 親鸞聖人
宗祖の主著 顕浄土真実教行証文類(教行信証)
宗派名 真宗大谷派-1
本山 真宗本廟(東本願寺)

●宗祖親鸞聖人の教えを伝える主な書物


-顕浄土真実教行証文類(教行信証)-

親鸞の主著であり、浄土真宗の根本聖典で、『教行信証』と略称されています。教巻・行巻・信巻・証巻・真仏土巻・化身土巻の6巻からなっており、冒頭に総序、信巻の前に別序、巻末には後序が置かれています。


-歎異抄-

親鸞聖人の弟子である唯円(ゆいえん)が著したと言われる書であり、親鸞聖人の言葉によりながら、聖人なきあとの異説を歎き、聖人の教えの真意、真実の信心を伝えようと書き記したと言われています。前後2部に分かれ、前半は、親鸞聖人から聞いた法語を記し、後半では、当時行われていた念仏の異議をあげて批判し、真実の信心に目覚めるように、法然上人や親鸞聖人の言行が引かれています。


-正信偈-

「正信偈」は、私たち真宗門徒にとって、古来からお内仏の前でおつとめしてきたお聖教です。親鸞聖人は、仏教の教えが釈尊の時代から七高僧を経て、自分にまで正しく伝えられてきたことを、深い感銘をもって受けとめられました。この「正信偈」は、親鸞聖人がその感銘を味わい深い詩(偈文)によって、後の世の私たちに伝え示してくださったものです。


-御文-

第8代蓮如上人が、ご門徒たちに宛てた「御手紙」で、真宗の教えがわかりやすく、しかも簡潔に書き表されています。当時(室町時代)の「御文」は、ご門徒に広く公開され、法座につらなった読み書きが出来ない人々も、蓮如上人の「御文」を受け取った人が拝読するその内容を耳から聴いて、聖人の教えを身に受け止めていかれました。「御文」は、現在約250通が伝えられており、その中で、文明3年(1471年)から明応7年(1498年)にわたる58通と、年次不明の22通の合計80通を5冊にまとめた『五帖御文』が最もよく知られています。


-本願寺聖人伝絵-

親鸞聖人の曾孫である覚如上人が撰述した聖人の行状絵巻。詞書の部分を集めたものを『御伝ショウ』、図画の部分を軸装したものを「御絵伝」と称し、東本願寺(真宗本廟)をはじめ各寺院で勤められる報恩講の際に拝読されます。

■沿革

能量寺は、安政5年(1858年)12月「函館御坊:浄玄寺」の役寺として設置【開基】されました。

石狩の地においては、同じく安政5年に幕府の役人荒井金助の部下である亀谷丑太郎、大西文左衛門、増川菊次郎、玉川啓吉、田付清左衛門の5人の真宗門徒が念仏の声を上げました。その後、移植者たちとともに精神のよりどころとなる道場「真宗大谷派石狩道場」を慶応3年(1867年)12月に石狩町親船町の玉川啓吉宅に開設【石狩開教】し、お念仏の教えを護持してきました。

明治8年(1875年)には、曽我信彦師が札幌山鼻本願寺別院より御影像を賜り石狩道場に仮設しました。明治9年(1876年)には、120軒ほどの門徒が、お念仏の教えを守るために石狩町親船町北25番地に堂宇を建立し「真宗説教場」としました。以後下記のとおりの歴史を経て現在に至ります。



明治11年(1878年) 開拓使函館支庁の許可を得て能量寺を現地に移して寺号を公称【寺号公称】する
明治14年(1881年) 曽我信彦師が能量寺の住職として任命される
明治23年(1890年) 12月22日曽我信彦師還浄
明治24年(1891年) 門徒一同、隣地北26番地に仮本堂の建設を開始(明治25年まで)
明治25年(1892年)9月 仮本堂に入佛
明治25年(1892年)11月 本山本局用掛の飯尾円蔵師が寺務整理のため現住し、後に第2世住職となる
昭和3年(1928年) 大谷句佛師(彰如上人)御来寺、御逗留、北海道、樺太御順化句集(自適)ほか多数の句、書を残す
昭和8年(1933年) 2月20日3世坊守貞子命終
3月18日2世坊守尚子命終
3月23日2世住職円藏命終
昭和9年(1934年) 3世住職安居蓮子と再婚
昭和10年頃 広島文理大学金子大栄先生を招き夏季学校を開催、道内より多数の受講者来寺す
昭和19年(1944年) 梵鐘供出
昭和21年(1946年) 3世住職、民選初の石狩町長となる
昭和25年(1950年) 7月19日20日、御法主台下御親修により宗祖親鸞聖人650回忌法要厳修。御法主台下、御裏方様御逗留。大谷句佛師句碑除幕
昭和35年(1960年) 5月15日3世住職円什命終
昭和35年(1960年) 12月24日、円仁4世住職拝命
昭和46年(1971年) 本堂修復、会館、庫裏落慶法要厳修
昭和47年(1972年) 7月24日より26日まで、宗祖親鸞聖人700回忌法要、能量寺創立100年記念法要、3世住職13回忌法要を厳修。25日御日中は大谷光暢法主台下御親修
昭和62年(1987年) 3世坊守蓮子命終
昭和63年(1988年) 境内整備事業をなす
平成8年(1996年) 4世住職円仁退任
平成8年(1996年) 9月28日、亜紀仁5世住職拝命
平成10年(1988年) 梵鐘、鐘楼堂再建
長谷川美樹也、茂子、長谷川悦男、友子両ご夫妻の寄進による
平成11年(1989年) 5世住職小島志保と結婚
平成12年(1990年) 新門徒会発足
平成16年(2004年) 能量寺開基150年記念、本堂建設実行委員会設立
平成20年(2008年) 7月17日~19日、能量寺歴代住職、坊守年忌法要、蓮如上人500回御遠忌法要

■歴代住職略歴

-開基住職 曽我 信彦-

曽我信彦師は、開教に熱心であった。特に明治7年(1874)室蘭(のちに証誠寺)、8年(1875)石狩(のちに能量寺)、増毛(のちに潤澄寺)、10年(1877)厚田(のちに常照寺)、浜益、12年(1879)琴似(のちに浄恩寺)、千歳、当別、14年(1881)樺戸(須倍都懲監内)、15年(1882)篠路、22年(1889)望来に説教場を創立した。

また7年(1874)琴似・手稲・平岸・月寒・丘珠・篠路・苗穂にて月例布教開始、10年(1877)花畔にて布教開始する。明治22年(1889)本山より「北海道渡航以来、数多の困難に堪え、布教に尽力し、所在説教場を創立等其効不尠、奇特の至」として表彰される。


-2世住職 飯尾 圓藏-

飯尾圓藏師は、宗学修業に熱心であった。宗学修業のため各地を行脚した後、石川県師範学校に入り明治9年(1876)小学校教員となるが、同年職を辞し京都の本山東本願寺にて宗学を修める。12年(1879)越後国高田別院小学校校長、13年(1880)筑後国久留米市小学校校長、15年(1882)能登に帰り羽咋郡積善社を主宰し居村・志雄村付近14ヶ寺を統合して仏教学事会を組織し宗学の研究機関とした。

長年、宗教教育界に尽力し24年(1891)長男圓乗に住職をゆずり来道し、同年9月小樽量徳寺院代となり、25年(1892)能量寺第2世住職となり、布教強化に力を入れるとともに、石狩地方の公私に尽くした。


-3世住職 飯尾 圓什-

飯尾圓什師は、造田などの地域に対しての政治活動ならびに藍綬褒章受賞がクローズアップされているが、僧侶としての教化活動ならびに人材育成にも力を入れていた。昭和10年頃(1935頃)異安心問題から大谷大学教授を免ぜられ大谷派僧籍を剥奪されていた金子大榮師(広島文理大教授)を招き、仏道修学ならびに研鑽の為に夏季学校を開設し、多くの青年僧侶の面倒を見た。

また大谷派教師養成機関である5年生の北海真宗夏季学校に通う道外や道内の青年を、期間中宿泊させて札幌まで通わせたこともあった。一般門との教化にも熱心で、青少年を集めた海浜学校、青年を集めて仏教青年会や勤行の練習会なども開いていた。


-4世住職 飯尾 圓仁-

飯尾圓仁師は、大谷大学で英文学を専攻し大学院にて山口益教授のもと仏教学を就学中のところ第4世が病床に伏したため中退し能量寺に戻る。4世還浄につき住職に就任する。教育に熱心で、地域の中学生を集めお寺にて学習塾を開催する。民生委員、教育委員、市議会議員なども歴任し地域にも貢献する。特に市議会議長も務めた。老朽化が激しかった能量寺伽藍の整備に着手し、本堂修復、会館・庫裏新築を行った。落慶後、宗祖700回御遠忌・能量寺創立100年記念・3世住職13回忌の法要を東本願寺の大谷光暢法主を迎えて勤める。その後納骨堂新築、境内整備事業などを行った。宗門行政にも貢献し、教区会議員を2期務める。石狩キャンベルリバー友好協会会長など国際交流活動や、ライオンズクラブ会長、ボート協会会長など社会活動も積極的に関わっている。


-5世住職 飯尾 亜紀仁-

飯尾亜紀仁師は、大谷大学で仏教学を北海道出身の小川一乗博士のもと修学し、在学中はカナダ・アメリカにホームステイや、インド・タイに2ヶ月滞在など貴重な経験をした。卒業後は一時教員を目指し、母校石狩高校にて社会科講師を務める。その後、大学時代にホームステイした家庭を尋ね、ワーキングホリデービザを取得してカナダに渡航。帰国後は、社会における寺院のあり方、開かれた教化活動を追求して様々な活動を展開する。

教化活動として近隣寺院とともに真宗大谷派「石狩会」を設立し、子供サマースクール、ウインタースクールなどを毎年開催。浄土真宗各派寺院に呼びかけ石狩浄土真宗連合を結成し毎年各寺院相互参勤。青年層を中心にローイングクラブ「マハーヤーナ」を結成しレガッタに出場。社会教育団体としての石狩大谷子供劇団『碧い海』を設立、毎年定期公演。ハワイのワイメア東本願寺との交流を進めるため石狩カウアイ友朋協会を設立し、毎年交互に青少年・成人・先住民を派遣受入。

寺院内の組織整備では、維持費制度を全面改正し一律の門徒会費制度を創設。門徒会規約を制定して近代的・民主的に組織強化を図る。人材育成にも力を入れ、一般青年から5名僧侶を誕生させる。雅楽の会「能量寺楽所・尚楽会」を設立し、女性11名が能量寺の楽僧として活動。能量寺婦人会を設立。能量寺青壮年部「大乗会」を設立。

地域の中では、多種多様な若者100名を集め、野外劇を中心とした、まちおこしグループ「TEAM 0133」を設立し、1997年~2002年まで野外イベントを開催、数万人の観客動員数を誇った。その活動で出遇った小島志保と結婚。石狩青年会議所(石狩JC)第20代理事長を務め、市町村合併台推進の各種提言や事業を行う。石狩市・厚田村・浜益村合併協議会委員を務める。

事業としては、平成11年(1999)の会館改修工事、平成16年(2004)から始まった能量寺開基150年記念事業としての本堂・納骨堂新築・墓地整備工事、平成20年(2008)の開基150年記念・本堂落慶法要、宗祖親鸞聖人750回御遠忌お待ち受け法要、蓮如上人500回御遠忌法要、開基住職125回忌・3世住職50回忌・3世坊守25回忌法要を厳修した。法要には、永年交流していたハワイや韓国・カナダ・フランスから多数友人が参列した。法中も本州からの友人僧侶が多数参勤した。現在、坊守志保との間に「ももこ、くるみ」の娘二人。

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